私は、脳卒中で左マヒを患った92歳の父親を介護しています。
父は、平成14年の3月に73歳で脳出血を患い、約3か月の入院(八戸と三沢)を経て以後19年自宅で生活しています。病前の父は、悠々自適に日曜大工と私の姉の子(孫2人)の世話を生き甲斐としていた普通の地域の高齢者でした。
発症直後に脳外科の先生に「見通しは、寝たきりか車椅子で殆どの行動に介助を要すると思います」という説明を頂きました。
CTの画像には、ピンポン玉大の血腫があり、私もその通りだと思いましたが、血腫を除去する手術をした方の方が、回復の良い例が多少多く経験していたため、血腫の除去手術を希望し、1週間後に手術して頂きました。
入院中は、マイペースな性格なため、食事以外の動作は全て介助を要する状態にも関わらず、「早く自分の家に帰りたい」と訴えていました。私は、病院のリハビリの時間以外にも家族として病棟の生活の補助として、HCU(高度治療室)から座る練習や食べ物の飲み込み、ベットからの起き上がり、車椅子への乗り移り、片手での歯磨き、トイレ動作等の自立支援を行いました。
父は、病前は私の言う事など聞く人ではありませんでしたが、家に帰りたい一心で一生懸命私の自立に向けた指導に応えました。
その甲斐あってか、発症直後の脳外科の先生の見通しを上回り、寝たり起きたりは自立し、食事と歯磨きなどは自立し、見守りで伝い歩きが出来てトイレが自立(夜はポータブルトイレ)し、施設ではなく自宅に退院しました。
退院前には、外泊し、ベットとポータブルトイレの選定や、段差の解消や戸の交換工事等を行い、本人の動きやすさと介助のしやすさを整えました。
入院の間、私は食事が普通の食事を摂れて、伝い歩きでトイレがほぼ自立すれば、環境を調整した上で母と父が二人で住む自分の家に帰れるが、そこまで至らず、施設となると他の人と馴染めるか?という懸念があり、私は後悔しないように病棟での自立支援を行いました。
父に学費を払ってもらった分を返すつもりで頑張りました。あと、自分の技術も試されているような気もしました。
このような時間を経て、3か月で自宅退院しましたが、父は「やっと帰ってこれた」と話し、私は「こんなに早く、しかも歩けて帰ってきた」という思いと大きな差がありました。
退院した後も、1カ月は家の中を歩くだけで付き添いを要する事や、車の運転が出来なくて「お荷物になってしまった。死にたい」と言い出し、私は、手術した八戸の病院の先生に会いに連れていきました。「死ぬなら救ってくれた人に断りを入れてくれ」と父に言っておきました。
先生の前で杖を使わせて付き添って歩いて見せると、先生は驚いた表情で「今日はどうしたんですか?」「こんなに早く歩けて良かったですね」と言われました。父は「お陰様で元気になりました」と答えました。それからは、思うようにいかない事があっても「死にたい」とは言わなくなりました。
退院後も、6か月程度は運動機能も少し回復し続けました。屋外の杖歩行が1㎞出来るようになり、マヒの左手も補助的に使えるようになり、入浴が自立したり、車の乗り降りも自立し、タクシーで外出できるようになり、病院受診も自立しました。
車の運転を希望しましたが、麻痺側の視界の見落としが残っていましたので、広い駐車場で私が同乗して試運転してもらい、「事故無く公道を走る自信がある?」と聞くと「やめとくか。人をひいたら大変だものな。」と運転はあきらめてくれました。
日曜大工は、戸の取っ手をつける等の簡単な作業は出来ましたが、小屋を建てるといった大掛かりな事は、大工さんに任せて監督するというように、今迄とは若干違う形で関わる事で父らしさを取り戻しました。
お盆や正月の親戚の家への集まり、冠婚葬祭の参加や行きつけのお店への買い物や外食での外出、冬の終わりに雪かきなど、生活者としての新しい父らしさを見つける挑戦は発症後最初の1年は続きました。
年を経ると、母が手を骨折して父が茶碗洗いをしたり、私に子供が生まれた時には、抱くために約4kgのものを持つ練習や、ベビーカーを押す事、子供の遊ぶ木のおもちゃを作る事等、家族の構成等が変化し、役割や生き甲斐の変化も、父がどうしたいとおもっているか?に合わせて、父らしく出来る工夫は?を考えて、道具を用意したり、本人も様々な生活動作を練習したり、出来ない部分のみを手伝ったりしながら、住み慣れた場所で父らしく生きる事ができています。
今は、4年前に左大腿骨を骨折し、介助で10M歩く程度で、排泄や入浴も全介助になったものの、自宅で過ごし、子や孫と一緒に介助で出かけて外食なども出来ています。
私は、自分の父親だけでなく、にこ六に通うご利用者様も、その人らしく生きて欲しいと思っています。にこ六の「リハケア」で少しでも、その人らしさを叶えます。
作業療法士 白井純一朗
>>リハケアとは?